トップページ 料 金 ご注文の方法 梱包と発送 素人でも砥げる 砥ぎ・研ぎ・磨ぎ
 

  なぜ「研ぎ」「磨ぎ」じゃなくて「砥ぎ」なの

 「包丁をとぐ」に用いる漢字は「研ぐ」「磨ぐ」「砥ぐ」どれを使ってもいいようですが、当方は「砥ぐ」を使っています。ポリシーというほどのものはないのですが当事業所のある、青森市「戸山」の地名の由来は「砥山」であることが当方にとっては大事なことと考えています。

 まわりくどいのですが「砥山」にたどり着くために、ロマンに満ちたわが町会「戸山」の歴史についてお伝えしたいと思います。お付き合いいただける方はこの先もご覧ください。これからは戸山生まれの夫に代わります。


 

 「砥山の古代ロマン」を語らせて 

「戸山」紹介

 青森市は北の青森湾に中心を置いて、半円を描くように平野があり、山(丘陵)が取り囲んでいます。半円の平野はもともとは海で、元海岸線に続く丘陵のほとんどから縄文遺跡が出土しています。当方の住む「戸山」も海岸から続く丘陵部分で多数の縄文遺跡が出土しています。

 太古の大昔、半円の青森市内は海で、そこに八甲田山からの土砂が堆積して、とても長い時間をかけて陸になり、海岸線から丘陵にかけて人が住み続けて来たのでしょう。現在の町名に海岸線を表現するような金浜・浪館・浜田・浜館・浪打などあります。

 「戸山」の昔からの隣の町会(今は町会が増えて隣ではないが)は「浜館」、浜館が海岸線でそこから約2kmほどの戸山から丘陵が始まっていたのだと思います。10年ほど前までは学区が浜館小学校で、戸山生まれのほとんど浜館小学校の卒業生でした。はるか昔と少し昔の話が混在していますがご容赦ください。

 現在、「戸山」隣接して戸山団地がありますが、団地ができる前は戸山はぽつんと孤立するように他町会から離れていたのですが、隣接して戸山団地ができることになり昭和51年に周辺の発掘調査が行われました。海岸線にも住んでいたのでしょうが、遺跡として残るのは丘陵だけ。調査面積は約1万平米とかなり大規模なものでした。この調査によって戸山周辺からでかなり貴重な遺跡が発見されています。間違いなく三内丸山のような暮らしがここにもありました。

 私にも縄文の血が現在まで引き継がれているのでしょうか。何代も前からここに住むものにとっては興味あるところです。

 

  ここから本題に入ります 

 今は「戸山」と言うと「戸山団地」で青森市民には認知されているようですが、戸山団地の東側に位置する戸山本村が由緒正しい?「戸山」で、住所表記は「青森市大字戸山」となっています。

 そもそも「戸山」の地名は、近くの砥取山から砥石が採れたので「砥山」になったと伝えられています。この標高165メートルの砥取山には、今でも砥石を採掘した跡が見られます。江戸時代の民俗学者で、全国を行脚して紀行文を残した菅江真澄もこの地に立ち寄っています。菅江は「砥山の研磨石は、青砥山にもまさるよい石であるが、神のおられるところであるから、祟りがあるのをおそれて掘り取らず、質のよくない砥石を砥崎(戸崎)の境から堀り使用するのだ…と村長がいった。」と記していて、採石すれば荒天になると信じられていたようです。

 また津軽塗りの研磨に使用する砥石は、戸山の石が最もよいとして津軽藩に納められていたことも伝えられています。

 昭和40年ころまでは、戸山に一軒だけ砥石を採って加工販売していた方がいました。砥石を採取し鉈で荒削りしている姿をよく見ました。その砥石は中砥石の範疇と思います。戸山は農村地帯でしたので鎌などの農機具の砥ぎ多用されていたようです。我が家にも昔の戸山の砥石が何本も残っています。現在は、砥石が採れたことを知る人がだんだん少なくなってきています。戸山には「青年会」があって、その法被には「砥山青年会」と銘打って戸山ロマンの伝承に貢献しています。私が刃物の砥ぎに興味を持ったのは「砥山」生まれも影響していると思っています。

 

 「斧懸神社」も紹介させてください 

 これからは、本題からやや離れて、戸山の歴史には必然の「斧懸神社」の紹介をさせていただきます。

□ 戸山の斧懸神社と斧懸の松(斧懸:おのかけ) □

 戸山赤坂に大山祇神を祭神とする斧懸神社があります。「青森史」には、元文元年(1736年)に戸山村と戸崎村が再建したとあり、また明治初期に青森県が編纂した新撰「陸奥国史」の社寺縁起旧期の中には砥山神社と記されており、「元は斧懸神社と云う」とあるようです。江戸時代の民俗学者の菅江真澄は「砥山という村があり、斧掛明神という神社があった。その由来をたずねると、斧かけの松というのが御社のかたわらにたっていた。むかし木こりが宮木を切ろうというとき、まず斧に神への奉献物をとりそろえて、松に懸けて奉ったという」と記しているようです。上欄と重複するところもありますが、次のような記録があります。

 ・当時の砥山(砥取山)は砥石を産することで有名であったが、採石すれば荒天を招くと信じられていた。

 ・元禄16年には稲仕舞いが済まないうちに砥石を採取することを藩から禁止されている。

 今、砥取山の砥石を見る限りでは、天然荒砥 で明治以降は大々的には採掘していない感じだが、漆器の砥に使われていたなら中仕上砥程度の細かさと思います。



 さて、戸山の斧懸神社はその後、山子たちの信ずる所となり、山に木を伐りに入る者は、境内の老松に祈りを込めて、斧の形に枝を払った木を放り投げ、松の枝にひっかかった者だけが山に入ることを許される習慣があったそうです。

 また、そのむかし、まだ青森平野が海であった頃漁師たちは斧懸神社の老松を、はるか沖合いから帰港の目印にしたものだそうです。

 今も、八十余段の石段を登りつめると、陸奥湾や津軽半島の山々と青森平野を一望できます。そこが海だったというイメージで眺めるとまた違う眺めになります。

 「斧懸の松」の前には石碑があり、何代目かはわかりませんが「斧懸の松」として現存しています。時の流れで、山子ばかりでなく、戸山や近郷の人々の嫁とり婿とりの占いの樹になった時期もあるようです。現在はその由縁について知る人も少く、現在の斧懸の松に枝を放り投げて引っ掛けるには大きすぎますが当時の様子を思い浮かべながら訪ねていただければ幸いです。

 ここまでお読みいただいた方、お付き合いいただきありがとうございました。

 あと書き・・・・由緒ある砥石の産地で包丁の研ぎをしていながら、砥石を使わずベルトサンダーで砥ぐことに少し後ろめたさを感じていました。今回、ホームページ掲載のためにと「砥山」について調べる中で、前述の『砥山の研磨石は、青砥山にもまさるよい石であるが、神のおられるところであるから、祟りがあるのをおそれて掘り取らず、質のよくない砥石を砥崎(戸崎)の境から堀り使用する』の記録の発見で、砥山にいながら砥石を使っていないことに対して少し気持ちが楽になりました。

 現在、機械砥ぎの精度の高さに新しい発見をしながら砥ぎの仕事を楽しまさせていただいています。廉価で切れる包丁砥ぎでみなさまのお役に立てればいいなと思っています。

Copyright © 2015 おさない包丁砥ぎ研究所 All rights reserved.
by おさない包丁砥ぎ研究所

 (プロの砥ぎ屋です。格安です。全国から郵送受付しています。男前の砥ぎ師・安い・お得・丁寧)